羽柴 八郎 秀家
元亀3年-明曆元年
宇喜多直家の実子であり
元服後に 羽柴秀吉 から「秀」の字をもらい受ける
秀吉からの信頼厚く 豊臣五大老の一人 に任じられた
栄光と挫折を味わうも
懸命に乱世を生き抜いた 戦国の貴公子
1581年(天正9年)
父・直家が病没 家督を相続
秀吉の寵愛を受け猶子となる
1588年(天正16年)
秀吉の養女(前田利家の娘) 豪姫 を正室に迎える
外様ではあるが、秀吉一門衆の扱いを受け
北条征伐 九州攻め 四国攻め 朝鮮の役 など
数々の戦に従軍し武功を立てる
1598年(慶長3年)
秀吉の信頼厚く 五大老の一人 に任じられる
度重なる従軍の結果、財政難となり
領地に重税を課したことを遠因として
宇喜多騒動 が勃発
1600年(慶長5年)
関ヶ原の合戦
西軍で最も多い1万7千人もの兵を率いて
福島隊と一進一退の激闘を繰り広げた
西軍が敗れ、薩摩にかくまわれた後に 八丈島へ流罪 となる
その後 八丈島で余生を送り 84歳の長寿を遂げた
関ヶ原に参戦した大名としては 最も長く生き抜いた
「宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語であり
1582年(天正10年)の元服時には 仮名として「八郎」
実名(諱)として「秀家」を名乗った
宇喜多家の家督を継承したが
“ 宇喜多 ” の名字が使われた記録は無い