お福 / 円融院
天文18年 ー 没年不詳
美作国高田城主 三浦貞勝の正室
のちに 宇喜多直家の継室 となる
一説に 豊臣秀吉の側室 だったとも言われる
一説に 豊臣秀吉の側室 だったとも言われる
妻、母として直家と秀家を陰で支えた
豊臣五大老の一人 宇喜多秀家の実母
三浦桃寿丸 吉川広家 正室 容光院 の実母でもある
美作高田城主 三浦貞勝に嫁ぐが
1665年(永禄8年)
三村家親に攻められ 夫・貞勝 が自刃
嫡子・桃寿丸と共に落ち延びた先で
備前沼城主 宇喜多直家 と出会い継室となる
2人の関係は良好で 寵愛を受けたとされる
1572年(元亀3年)
のちの五大老の一人 秀家を産む
1581年(天正9年)
直家が病死
直家の死後、出家し「 円融院 」と名を改める
幼い秀家を支え 宇喜多家を盛り立てたとされ
「 岡山城の女城主 」と称された
豊臣秀吉の側室であった という説に関しては
・直家が亡くなる前後に
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の側室となった
・宇喜多家の安泰と幼く家督を継いだ
秀家の将来を考え お福から羽柴秀吉に接近した
などの説があるが定かではない
1584年(天正12年) 三浦貞勝との子・桃寿丸が
京都に上がった際に地震により圧死
直家 と 桃寿丸 を失ったことで心労がたたり
病に罹ったお福を 秀家と家臣たちは案じ
湯原の地 に湯治場を調えたとされる
その時の宿舎等は地元民が譲り受け「はたご」として活用
湯原温泉 は賑わいを見せたという