戸川(富川)秀安

 



宇喜多三家老の一人。 実母が備前福岡において宇喜多直家の異母弟(忠家)の乳母であった関係で、

直家が乙子城主となった天文14年(1545年) 頃から小姓として仕え始めたため、

家臣団の中でも最古参といえる。 1566年(永禄9年) 三村家親の弔い合戦と称し、三村五郎兵衛が寡兵を率いて、備前に攻め入った折、

宇喜多忠家らとともに迎撃した。

その後は三村氏や毛利氏らとの戦いにたびたび出陣し、多くの武功を立てる。




豪姫








豪姫 / 備前御方 / 樹正院
天正2年ー寛永11年


宇喜多秀家の正室 にして
前田利家の四女    豊臣秀吉の養女

男なら関白に と言われるほど
秀吉から寵愛を受けたとされる

秀家と離れ離れになっても尚
支え寄り添い続けた聡明で美しい戦国の姫

洗礼名「 マリア 





2歳にして前田家から羽柴家へ養女に出され
太閤秘蔵の子 として寵愛を受ける


1588年(天正16年)
秀吉の猶子であった 岡山城主 宇喜多秀家と婚姻

三男二女を授かる


1602年(慶長7年)
関ヶ原の敗戦後、秀家は 死罪 と言われていたが
兄・前田利長、島津忠恒と共に嘆願し 
流罪に減刑された


秀家と共に流罪になる意思を伝えたが
徳川家康は豪姫を不問とし 共にいることは叶わなかった


前田家の領地である金沢へ戻り
秀家や家族の事を思い八丈島に仕送りを続け支え続けた


豪姫の死後は 前田家が仕送りを継承
明治維新まで子孫たちに延々と送り続けられた


宇喜多秀家





羽柴  八郎  秀家

元亀3年-明曆元年



宇喜多直家の実子であり

元服後に  羽柴秀吉 から」の字をもらい受ける


秀吉からの信頼厚く 豊臣五大老の一人 に任じられた


栄光と挫折を味わうも

懸命に乱世を生き抜いた 戦国の貴公子






1581年(天正9年)

父・直家が病没 家督を相続


秀吉の寵愛を受け猶子となる



1588年(天正16年)

秀吉の養女(前田利家の娘)  豪姫 を正室に迎える



外様ではあるが、秀吉一門衆の扱いを受け

北条征伐  九州攻め  四国攻め  朝鮮の役 など

数々の戦に従軍し武功を立てる



1598年(慶長3年

秀吉の信頼厚く 五大老の一人 に任じられる


度重なる従軍の結果、財政難となり

領地に重税を課したことを遠因として

宇喜多騒動 が勃発



1600年(慶長5年)

関ヶ原の合戦

西軍で最も多い1万7千人もの兵を率いて

福島隊と一進一退の激闘を繰り広げた



西軍が敗れ、薩摩にかくまわれた後に 八丈島へ流罪 となる


その後  八丈島で余生を送り 84歳の長寿を遂げた

関ヶ原に参戦した大名としては 最も長く生き抜いた






「宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語であり

1582年(天正10年)の元服時には 仮名として「八郎」

実名()として「秀家」を名乗った


宇喜多家の家督を継承したが

“ 宇喜多 ” の名字が使われた記録は無い