にまらじ新エピソードを公開しました
今回も忠家が好きな映画について話します!
ラジオ配信・演武動画のため岡山戦国武将隊の
公式YouTubeチャンネルを開設予定です
ラジオ配信(月一配信予定)
岡山戦国武将隊の魅力を二割増しでお届けするラジオ
略して「にまらじ」
武将及び姫がラジオパーソナリティとして配信を行います
演武動画(不定期更新予定)
ステージ演武の様子やその他動画を不定期に更新していきます
チャンネル登録よろしくお願いします
宇喜多三家老の一人。 実母が備前福岡において宇喜多直家の異母弟(忠家)の乳母であった関係で、
直家が乙子城主となった天文14年(1545年) 頃から小姓として仕え始めたため、
家臣団の中でも最古参といえる。 1566年(永禄9年) 三村家親の弔い合戦と称し、三村五郎兵衛が寡兵を率いて、備前に攻め入った折、
宇喜多忠家らとともに迎撃した。
その後は三村氏や毛利氏らとの戦いにたびたび出陣し、多くの武功を立てる。
元亀3年-明曆元年
宇喜多直家の実子であり
元服後に 羽柴秀吉 から「秀」の字をもらい受ける
秀吉からの信頼厚く 豊臣五大老の一人 に任じられた
栄光と挫折を味わうも
懸命に乱世を生き抜いた 戦国の貴公子
1581年(天正9年)
父・直家が病没 家督を相続
秀吉の寵愛を受け猶子となる
1588年(天正16年)
秀吉の養女(前田利家の娘) 豪姫 を正室に迎える
外様ではあるが、秀吉一門衆の扱いを受け
北条征伐 九州攻め 四国攻め 朝鮮の役 など
数々の戦に従軍し武功を立てる
1598年(慶長3年)
秀吉の信頼厚く 五大老の一人 に任じられる
度重なる従軍の結果、財政難となり
領地に重税を課したことを遠因として
宇喜多騒動 が勃発
1600年(慶長5年)
関ヶ原の合戦
西軍で最も多い1万7千人もの兵を率いて
福島隊と一進一退の激闘を繰り広げた
西軍が敗れ、薩摩にかくまわれた後に 八丈島へ流罪 となる
その後 八丈島で余生を送り 84歳の長寿を遂げた
関ヶ原に参戦した大名としては 最も長く生き抜いた
「宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語であり
1582年(天正10年)の元服時には 仮名として「八郎」
実名(諱)として「秀家」を名乗った
宇喜多家の家督を継承したが
“ 宇喜多 ” の名字が使われた記録は無い
美作高田城主 三浦貞勝に嫁ぐが
1665年(永禄8年)
三村家親に攻められ 夫・貞勝 が自刃
嫡子・桃寿丸と共に落ち延びた先で
備前沼城主 宇喜多直家 と出会い継室となる
2人の関係は良好で 寵愛を受けたとされる
1572年(元亀3年)
のちの五大老の一人 秀家を産む
1581年(天正9年)
直家が病死
直家の死後、出家し「 円融院 」と名を改める
幼い秀家を支え 宇喜多家を盛り立てたとされ
「 岡山城の女城主 」と称された
豊臣秀吉の側室であった という説に関しては
・直家が亡くなる前後に
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の側室となった
・宇喜多家の安泰と幼く家督を継いだ
秀家の将来を考え お福から羽柴秀吉に接近した
などの説があるが定かではない
1584年(天正12年) 三浦貞勝との子・桃寿丸が
京都に上がった際に地震により圧死
直家 と 桃寿丸 を失ったことで心労がたたり
病に罹ったお福を 秀家と家臣たちは案じ
湯原の地 に湯治場を調えたとされる
その時の宿舎等は地元民が譲り受け「はたご」として活用
湯原温泉 は賑わいを見せたという
千姫(徳川秀忠と江姫の娘)と本多忠刻の娘であり、徳川家康のひ孫にあたる。
ゆえに織田信秀、浅井長政、徳川家康、本多忠勝など戦国の名将の血筋を引く。 池田光政元服の際に、秀忠の養女となり婚約する。 1628年(寛永5年) 江戸城を出て池田家上屋敷にて輿入れ。 1632年(寛永9年) 光政と共に備前国に入国した。また領国が水害などで財政的に危機に見舞われたため、 母・天樹院(千姫)に頼み、黄金5万枚、銀2万枚を光政に寄付した。